[C2011-02]映画『英国王のスピーチ』を観た
日比谷シャンテ。
滑舌が悪く、いわゆる吃音の英国皇太子の弟が、その自らの問題を乗り越えようと必死にもがく映画。そこに英国の王族としての宮殿での生活や公務、1930年代のロンドンの街並みなどが再現されていて美しが、きらびやかさといったものは垣間見えない。劇中のバーティー(後の英国王)のセリフにもあるが、この頃の英国王室は「王族という会社」であり、王族としての仕事(公務)を立派にこなしていかなければならない一種の「隷属状態」であったのだ、ということがうかがえて新鮮だった。
そんな中でバーティーは王族という会社の重役として、「与られる責務をしっかり果たしていきたい」と常に考えている真面目な青年(?)だ。誰よりも真面目で、王になる前から(一時は父王の跡を兄が継いでいた)「人前で話せない」という生まれついた(と考えていた)欠点を克服しようと必死で、そこに胸を打たれた。
そして、その真面目さは王族としての誇りの高さからくるものだと観ている側は承知をしているにもかかわらず、決して平民を蔑むことはなく、治療のためにお互いの信頼と対等な関係を求めるライオネル(スピーチ矯正の専門家・オーストラリア人(蛮民というセリフがあったような…もち平民))とも、いろいろあるにはあるけれど、信頼関係・友人関係が築けるなど、人柄も立派だ。
また、落ち込んだりしながらも必死に努力を続けるバーティーを支え続ける妻、エリザベスの献身には胸が熱くなった。やはり夫を励ます「ステキな吃音、幸せになれそう」というセリフには目頭が熱くなった。
人々に勇気を与える仕事というのは、この物語の舞台よりももっとずっと以前から確かにあったのである。人々の士気を高め、生産性を高めるという立派な仕事である。そこそこ自分に与えられた仕事ができても、ブチブチ愚痴ばかり口にして周囲の仕事の能率を落とすような人間よりずっと立派な仕事だと思う。
しかし、仕事である以上、そこには必ず向き不向きがある。人間性、社交性は今最も重要視される能力であるし、それを仕事の武器にできるまでにどれだけ鍛えて来れたか、というのはその人の生まれ持った性格や環境の影響も少なくない。概して子供の頃の努力よりも大人になってからのそれの方がしんどいような気がする。そのようなことを考えながら仕事をしていると、「この仕事はアイツならもっとうまくやるだろうにな」と思うことはしょっちゅうである。
人々の前に立って何かを訴える。時に見も知らぬ大勢を相手に自分を演じ、あるいはその一部をさらさなければならないこともある。バーティーは何度もラジオ放送で「事故」を起こしてきた。当時、吃音や心身症にどれほどの理解があったのだろうか。今の職場や業界そのものでも十分とはとても言えないのに、それを抱え、国民(当時の英国王室は世界人民の四分の一を統治していた)に恥を晒すのはどれだけ辛いことだったろうか。
それでもバーティーは王位から逃げずに真摯に自分自身に取り組む。人々はやはりそんな自分たちの王を見ているのだと思う。歌手や流行歌やテレビのバラエティ・ドラマ、映画もそうだが、それらを娯楽だと一蹴する人もいる。だが、いつの時代もそれらが絶えたことはなかったのではないだろうか。いわゆるアイドルではなくとも、好きな歌の一つや二つは誰にでもあるものだ。それは確かに、誰もが誰かに勇気を与えられてきた証拠ではないだろうか。
英国も日本も、他の少なくない国々でも、勇気を与えてくれる象徴的存在として王室を守り続けているところがある。ライオネルを演じたジェフリー・ラッシュがこの映画のパンフレットでも述べているが、現代の世の中においても、まだ王室、君主制度が存在するという事実は、すごくおもしろいと思う。それは統治するもの・されるものという関係から、人々が生まれ持った「真摯さ、敬虔さへの憧れ」を投影する対象へと変わった、あるいはそぎ落とされたのだと思うが、確かに人々には不可欠なものなのだ。
自分は特段王室、皇室の熱狂的な支持者ではないが、上に述べたような役割を日常とする、仕事とする人が確かにいるのである。その中で逃れられない使命に向き合い、自分と戦い続けたバーティーは、やはり王にふさわしい人物だと思う。バーティーは王に生まれたのではなく王になったのだ。
私たちも向き・不向きで自分の能力・役割を狭めてしまうだけだはなく、時には向いていないと思う事柄に対しても、正面からぶつかり、その対象に誇りを持てるくらい必死に取り組んだなら、どんなことも新たな自分の領域とすることができるようになるのではないだろうか。そのことを改めて教えてくれた映画だった。
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