周りへの認識
自分の、自然と沸いて来る感情を、でもそれを決定的に否定しなければならないことが、明確な事実としてこの世の中にあるのがわかる。
『恋愛中枢損傷』なんて書いていたけど、そんなものでさえなかったのかもしれない。
今、やっと「人間は社会的な生き物だ」という言葉の意味がわかってきた。
自分はずっと、今まで32年間、全く社会的ではなかったのかもしれない。
他人を認識し、社会生活を送る上で必要なやり取りはしてきたけれど、その相手を「人」と認識してきたかどうかはっきりしない。
記号か何か、機能か何か、モノか何か、そんなものとしか認識できていなかった。いや、今だってそうだ。
人を、自分のように心のようなもののある「人間」という、例えばテレビのリモコンとは違う「何か」である、ということがわからない。
人と人が話をしているところを見ると、とても不思議な感じがする。その人たちがどんなことを考えているのかが全くわからないことが多くなってきた。
自分は今まで、周りの人の感情がどうなっているのかなんて考えたこともなかったのかもしれない。
この世に、明確な意思と感情があるのは自分しか見つけられなかったのだと思う。誰かを好きになっても、その人にあるのは生理的な好き嫌いだけだと思っていたのかもしれない。
フラれても、それは単にその人の生理的なものと自分が合わなかったからだと。
違う、相手にも感情と理性と意思があって、それは生理的なものと違って、周囲への反応ばかりではない。ゆっくりと、ゆっくりと「動いていくものかもしれない」。
こんなふうに周りのことを考えていたということは、自分はずっと生理的な人間だったのだろうか。
好きとか、嫌いとか、会った瞬間に感じるなんて、脳が機質的に異常のなではないのかと、反省もせずに疑ってしまう。
これからどうやって生きていくか、よく考えなくてはいけない。
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