コミュニケーション能力について① 自覚している人とそうでない人
コミュニケーション能力について改めて考えることになったきっかけは、6月からの不足人員を自分が所属する会社から出すとした場合、どんな人だったら6月が有効に回るようになるか、というような話が始まりだった。
自分はコミュニケーション能力の有無よりも、目の前の仕事と組織の中の自分の役割へのモチベーションの方がずっと大事だと思っている。でも、周囲では必ずしもそうではないらしい。おしゃべり好きでやる気のない人と、自分からはほとんどしゃべらず、こちらからも話しかけづらいけれど、頼んだ仕事は責任感をもって臨むような人。どちらが他のメンバーの足を引っ張らず、より沢山の仕事をしてくれるだろうか。
自分はもちろんコミュニケーション能力のない人間だ。それを言うとMPMからなぜか「自分をそう言っちゃいけない」と、まるで自分が自分のことを卑下した発言であるようなことを言われたしなめられた。
自分は、「この性格は自分のパーソナリティであり、自分はそんなコミュニケーション能力がないと自覚している人間の気持ちが分かる、と言いたかったのだ」と言った。
コミュニケーションは自明ではない。ただしゃべっていてもほとんど意思が伝わらないような会話はそれこそ毎日たくさん見られる。コミュニケーション能力がないと自覚している人間は、まず間違いなくそのことに敏感でいられているのではないだろうか。
自分のような、コミュニケーション能力がないと自覚している人間は、そもそも会話の絶対量が少ない。会話の経験がそもそも少ない。自然と他人とのコミュニケーションの場が少なくなり、つまり他人と意思の疎通を図るチャンスが少ない。自分たちは、その少ないチャンスを確実にものにしていかなければならない。
自分のような人間には一つ一つの会話がとても大切なのだ。自分が大事だと感じた会話は半年前のことでも昨日のことのように思い浮かび、たまにPMにそういった話を向けるが、よく覚えているなととても珍しがられることがままある。気持ち悪がられているのかもしれないけれど。
それが大事なことでも世間話でも関係なく、ただ長時間しゃべっていただけで何かが伝わるということはない。意思の伝達の量や質や密度は必ずしもその会話量に比例するわけではない。次のようなことだろうか。
- 会話中の前提知識をどれだけ持ち合えているか
- 会話の内容や相手にどれだけ興味があるか、話したいのか、知りたいのか
- 相手の話をしっかりと聞いているか、相手の意見や話を聞きたいと思えているか
- 会話中に分からないことがあったらそれを率直に聞き返すだけの親しみや信頼感をお互いに構築し合えているかどうか
- よりその話を充実させるために今どのようなことが必要か考えることができているか
これを考えると、ただのおしゃべり好きはコミュニケーション能力とほとんど関係がないようにも思えてくる。
MPMがその場で言ったことは、「問題があったら抱え込まない」ということだった。もちろんそれはそうだろう。自分に言われているようでもあって苦しかったが、それは周囲が気に掛けてやることもできるのではないか、と返してみた。MPMはそれが周囲の負担になると言う。
それを負担と感じる加減は様々だろう。「なぜアイツのために俺がいちいち……」と考えていたらそれは負担だろう。話し掛けづらい人に話し掛けるのは正直に言って負担だ。苦痛だと言う人もいるかもしれない。彼は周囲から壁を作っているように感じられ、話し掛ける方はその壁をよじ登ってHelloと声を掛けなければいけないからだ。
でも、真にコミュニケーション能力とやらを持っているならば、その壁を軽々と飛び越える羽も持ち合わせているのではないだろうか。
自分たちコミュニケーション能力がないと自覚している人間だって、ずっとそのままでいいとは思っていない。現在自分が所属している集団が崩壊したりその集団からはじき出されたりして新たな集団に所属しなければならなくなった場合、このコミュニケーション能力とやらは自分の人となりが理解されるよりもはるかに手前で評価され、ひいては運命を決定づけることもあるということを理解しているからだ。
それを考え続けるために、自分はここで細々と考えや不足していることを整理し、その結果を残しているわけだ。逆に、コミュニケーション能力があると自覚している人はここまで敏感にはいられないだろう。
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