伝えられるときに伝えなければ
最近、通勤中も、昼休み中も、家に帰ってきてもZARDを聴いている。
こういう自分はあまり好きではない。昔の曲を聴いているとか、甘えた気持ちになっているんじゃないか、というよりも、生前はほとんど聴いたことがなかった人の曲を、その人が亡くなってからこんなにも聴き、心を動かされているからだ。
自分は、生前は全く評価しなかったくせにその人の死後その業績をたたえるような人間というものの勝手さが許せない。好きだと、伝えられるときに伝えなければ、伝えるべき時に伝えなければ、その気持ちは、その伝えるべき人にとっては意味をなさないではないかと思うのだ。
今、自分が坂井泉水という人の楽曲を聴いて心を揺さぶられても、それは決して坂井泉水には届かない。彼女の死後にどれだけ多くの人が彼女の歌を聴いて励まされたとしても、それは彼女には届かない。彼女はもういないのだから。
伝えたいと思う自分たちの気持ちは、決して満たされないし、満たされてはいけない。自分たちが味わうのは感傷よりも後悔であるべきじゃないか、とさえ考えてしまう。
人を思う気持ち。自分が4年くらい忘れていた、ぼやけていた、あいまいだった気持ち。それを取り戻せそうになるまで気持ちが綺麗になっている。学生時代によく聞こえてきていた曲たちだからということもあろう。
今、また何度目かのターニング・ポイントに立っているときに、今までの自分とは違う自分でその曲がり角を見詰めることができているだろうか。
友人の協力を得て、自分は今、自らのターニング・ポイントに立つ。彼らに感謝しつつ、自分の殻を破りに、自分はそこに向かう。
どうか、そんな自分の力になって。あなたの最高の音楽と一緒にそこに向かうから。
ZARD 心を開いて
そうだ、今度みんなに会うときは、ZARDの話をしよう。自分が今、どんなにZARDに力づけられているか話そう。
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